元禄二年九月六日〔1689.10.18〕

旅のものうさも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又ふねに乗て、

  蛤のふたみに別行秋ぞ

曾良随行日記)

六日 同(天気吉)。辰尅出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三リ送ル。餞別有。申ノ上尅、杉江ヘ着。予、長禅寺ヘ上テ、陸ヲスグニ大智院ヘ到。舟ハ弱半時程遲シ。七左・玄忠由軒来テ翁ニ遇ス。


この別れを大垣蕉門の人々との別れと限定して読むと、おもしろさが逃げてしまうような気がします。「ほそ道」は別れで始まり、別れで終わる結構をとっていることに注目するならば、全編に分散するさまざまな別れの総括であると読むことが可能であろうと思われるのですが・・・。

ところで、「伊勢」に向かうのは再会を果たした「蘇生のもの」芭蕉曾良だけではない。「見えがくれ」の「伊勢参宮」の同行がいるのだ。
というわけで、この「伊勢に向けての別れ」を、市振で一家に寝た二人の若き遊女も芭蕉の分身であったことに---「同行」曾良芭蕉の分身(影身)であるように---思い至らせる、しかけと読むのも一興かと思う。
「白波のよする汀に、身をはふらかし、あまのこの世を、あさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし」は、遊女に投げられたことばであると同時に、旅人芭蕉自身にも向けられているのではなかろうか。(「遊女」の「遊」に、「遊行」の「遊」を重ねてもみるのもおもしろい・・・)

などと、とんでもない空想に浸っているうちに、「おくのほそ道」も終わりを迎えました。「奥羽長途の行脚、《たゞかりそめに》思ひ立」って、芭蕉曾良のお供をしてきました。
いっしょに5か月、156日〔弥生末の七日〜長月六日〕の長きにわたり、いたらぬ奇行に「同行」していただいた皆さん、ほんとうに有り難うございました。
(再録に当たっては、7月28日〜9月26日の2か月間、よんどころない事情で休ませていただきました。少しづつ補っていく予定です。)

芭蕉の「おくのほそ道」は、出発点に立ち戻るという「閉じられた環」の旅ではなく、果てることを知らない「螺旋の円環」の旅のようです。