2004-05-01から1ヶ月間の記事一覧

《おくのほそ道》四月十三日 〔016〕

《おくのほそ道》それより、八幡宮に詣、与一宗高、扇の的を射し時、別てハ我国、氏神正八まんと、ちかひしも、此神社にて侍ると聞バ、感應殊しきりに覚えラルる。暮れバ、桃翠宅に帰る。 《曾良随行日記》一 十三日 天気吉。津久井氏被見廻テ、八幡ヘ参詣被…

《おくのほそ道》四月十二日 〔015〕

《おくのほそ道》・・・、日とひ郊外に逍遙して、犬追ものゝ跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。 《曾良随行日記》一 十二日 雨止。図書被見廻、篠原被誘引。 鳥羽法皇の寵愛をうけた妖妃《玉藻の前》は、実は天竺・唐を経て渡来した《…

追記(2004.05.28)

今年はここ数日好天ですが、元禄二年の5月末は雨が続いているようです。上記の江戸の「黒羽ネット」については、05-25にも書いた『奥の細道を歩く』(井本農一・村松友次・土田ヒロミ/新潮社/1989.3)を参照ください。

《おくのほそ道》四月十一日 〔014〕

《おくのほそ道》黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。 日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ・・・、 《曾良随行日記》一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。 「余瀬翠桃ヘ帰ル」という表現からすると、芭蕉にとっても曾良に…

《おくのほそ道》四月十日 〔013〕

《おくのほそ道》黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。 日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ・・・、 《曾良随行日記》一 十日 雨止。日久シテ照。 4日降り続いた雨も上がり、5月晴れと言ったところなのでしょうが、特段の外出はなかっ…

《おくのほそ道》四月九日 〔012〕

《おくのほそ道》修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝ス。 夏山に足駄をおがむ首途哉 《曾良随行日記》一 六日ヨリ九日迄、雨不止。九日、光明寺ヘ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。(俳諧書留)しら川の関やいづことおもふにも、先、秋風の心…

《おくのほそ道》四月八日 〔011〕

黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。 日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ・・・、 (曾良随行日記) 一 六日ヨリ九日迄、雨不止。 今日(四月八日)も、雨で家老・浄法寺図書(高勝)の屋敷で、休養のようです。 これで休養?3日目に…

追記(2004.05.25)

黒羽大関藩の要職に就いている若き鹿子畑兄弟と芭蕉の江戸での出逢いについて知りたいと思われる方は、『奥の細道を歩く』(井本農一・村松友次・土田ヒロミ/新潮社/1989.3)の頭注に詳述されている井本農一氏の考証を、お読みになることをお勧めします。

《おくのほそ道》四月七日 〔010〕

《おくのほそ道》黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。 日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ・・・、 《曾良随行日記》一 六日ヨリ九日迄、雨不止。 今日も、雨で家老・浄法寺図書(高勝)の屋敷で、休養のようです。 梅雨には、まだ早い…

《おくのほそ道》四月六日 〔009〕

《おくのほそ道》黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。 日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ・・・、 《曾良随行日記》一 六日ヨリ九日迄、雨不止。 しめしめ、少し芭蕉にならってお休みとします。今日(四月六日)は、雨で浄法寺図書(…

謹告

芭 蕉 さ ま!、お詫びですが、 「ほそ道」の本文を、日次にあわせて切り張りしていること、お許しください。

《おくのほそ道》四月五日 〔008〕

《おくのほそ道》当国、雲岸寺のおくに、佛頂和尚山居跡有。 竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞやきこえ給ふ、其跡みむと、雲岸寺に杖を曳バ、人々すゝむで共にいざなひ、若き人おほく、道の程打さ…

《おくのほそ道》四月四日 〔007〕

《おくのほそ道》 黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。思ひがけぬ、あるじのよろこび、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて・・・、 《曾良随行日記》一 四日 浄法寺図書ヘ被招。《俳諧書留》 秋鴉主人の佳景に対す …

追記(2004.05.21)

上にはふれてないが、不思議なことを芭蕉はしている。 「浄坊寺何がし」「其弟桃翠」とは、これ如何に・・・。 「那須の黒ばねと云所に、知人あれば」と言っておきながら、その知人――彼等は、江戸で芭蕉の弟子であった人びとだというし、黒羽で10日以上世話…

《おくのほそ道》四月三日〔006〕

《おくのほそ道》(那須の黒ばねと云所に、知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかむとす。遥に一村を見かけて行に、雨降り日暮るル。農夫の家に、一夜をかりて、) 明れバ又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども…

追記(2004.05.20)

上の「東照宮に参詣した感激」という決めつけ的評言は、いささか疑問だと、今になって思います。その華美さに、目をみはったとしても・・・。芭蕉は「東照宮」という表現も使わず、「恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖、穏也。猶憚多くて」と書いています。今…

《おくのほそ道》四月二日〔005〕

《おくのほそ道》 二十余丁、山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりミれバ、うらみの滝と、申伝え侍る也。 暫時は滝にこもるや夏の初 那須の黒ばねと云所に、知人あれば、是より野越にかゝりて、直…

追記2(2004.05.19)

東照宮別当の大楽院は、かなりの力を持っていたようである。 http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=85 清水寺と芭蕉についても、後日再びふれることがでると思います。

追記

旅立ちから、日光まで一目散という感じですね。 「室の八嶋」の木花咲耶姫の貞操の誓いの話は、「剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質」の佛五左衛門に、つながっていると見て良いのではないでしょうか。 曾良ではじまった室の八島の話は、日光の曾良の句…

元禄二年四月一日〔1689.05.19/004〕

《おくのほそ道》卅日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、我名を、佛五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくハ申侍るまゝ、一夜の草の枕も打とけて休み給へと云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人を、たすけ給ふ…

追記(2004.05.19)

「このしろ」については、2年前の連載時に、net友登貴さんが貴重なコメントをつけてくださっていました。(今日、発見。なお、引用は『松尾芭蕉集2』(小学館/1997.9)によりました。)登貴: 「このしろ」と いえば、芭蕉が愛した杜國の ○箕に鮗(このし…

追記「富士と花」

そもそも奥の細道旅立ちの朝、芭蕉は富士をはるかに望んでいるのであるが、その後、第一の歌枕へとわき目もふらず突き進んできたという感じがしないでもない。 ここで芭蕉は、再び富士を話題に出している。旅程三日目、日光を目の前にして、旅立ちを想い、一…

元禄二年三月二九日〔1689.05.18/003〕

《おくのほそ道》室の八嶋に詣ス。同行曾良が曰、此神ハ、木の花さくや姫の神と申て、富士一躰也。無戸室に入て焼たまふ、ちかひのみ中に、火火出見のみことうまれ給ひしより、室の八嶋と申。又煙を読習し侍るもこの謂也。将このしろと云魚ヲ禁ズ。縁記の旨…

元禄二年三月二八日〔1689.05.17/002〕

昨日は、芭蕉と曽良を旅立たせるのに精一杯で、三月二十七日の旅程については書けませんでした。有明の月の残る早朝、深川をたち隅田川を遡行し、日光街道第一の宿駅〔千住〕で陸路につきました。 《おくのほそ道》耳にふれていまだ目に見ぬ境、若(もし)生て…

追記

雪月花の揃った幻想的な朝から、タイムトンネルのような「船行」を間において、船から揚がったところで「幻のちまた」、すなわち、この紀行が、「別次元」(耳にふれていまだ目に見ぬ境)に入っていくという構成になっているところは、注目しておいてよいと…

《おくのほそ道》元禄二年三月二七日〔1689.05.16/001〕

今日は、芭蕉が《おくのほそ道》への俳句旅行へ旅立った日でした。 《おくのほそ道》に、旅立ちの日として記されている「弥生も末の七日」(「元禄二年三月二七日」)は、グレゴリウス暦に直すと1689年5月16日。 平均すると、旧暦(太陰太陽暦)と太陽暦は…

稀有な年の「ほそ道」追跡

ところで、今年は、めずらしく芭蕉が奥州・北陸の旅をした年と、グレゴリウス暦と太陰太陽暦の日付けがほぼ一致する年なのです。ちょっと話がややこしいかもしれませんが、こういうことです。・元禄二年三月二七日=1689年5月16日(グレゴリウス暦換…

『おくのほそ道奇行』再録

2年前に、俳句サイト<ぽぷら21>の掲示板に書いた『おくのほそ道奇行』を、データの保管をかねて、ふたたび毎日、掲載していきたいと思います。 1.時間の余裕がないので、書き改めはせずに、内容は、原則2年前のままとします。 (ほんとの理由は、時間…