《おくのほそ道》四月十一日 〔014〕

《おくのほそ道》

黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。
日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ・・・、

曾良随行日記》

一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。


 「余瀬翠桃ヘ帰ル」という表現からすると、芭蕉にとっても曾良にとっても、黒羽での本宅?は、江戸で先に知り合っていた弟の鹿子畑豊明(翠桃)の方だったのでしょう。
 実際は、ほとんどを兄の浄法寺高勝(桃雪)邸に逗留はしているのですが・・・。


 前にも紹介したように大関藩の上屋敷は、湯島明神下にあり、豊明も江戸出府中は、藩邸にいたと思われます。
 後日、遊行柳のところで出てくる芦野の領主(旗本)芦野民部資俊の江戸屋敷もすぐ近くにあって芭蕉の門下だったようです。
(江戸切絵図お持ちの方は、ご確認あれ)

 いくつかのHPの説明では、芦野の郡守戸部某さんと、この弟豊明が混同されているものがありますが、豊明の俳号が、翠桃〔「ほそ道」では、桃翠〕、資俊の俳号が桃酔だったからでしょう。
 最初に勘違い(混同)してnet上に誤情報を書き込んだ人がいて、それを丸写し(コピー)した人が何人かいるようです。
自戒、自戒!!。


 想像するに、江戸で、芭蕉曾良)、翠桃、桃酔の交流があったのではないでしょうか。このように江戸での芭蕉のネットワークが、黒羽でフルに生きているようですね。

なお、芦野民部の下屋敷が深川にあったという記述も、net上にありましたが、私は確認していません。後日の課題。