《おくのほそ道》四月四日 〔007〕

《おくのほそ道》

 黒羽の舘代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。思ひがけぬ、あるじのよろこび、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて・・・、

曾良随行日記》

一 四日 浄法寺図書ヘ被招。

俳諧書留》

 秋鴉主人の佳景に対す


 山も庭にうごきいるゝや夏ざしき


 △浄法寺図書何がしは、那須の郡黒羽のみたち〔御舘〕をものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。地は山の頂にさゝへて、亭は東南のむかひて立り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵にかきたるやうになん。水の音・鳥の声、松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや。


 きのう(四月三日)黒羽に着き、黒羽余瀬の鹿子畑翠桃(鹿子畑兄弟の弟)宅に泊まった芭蕉一行は、きょう四月四日は、城下町の兄浄法寺図書高勝に招かれ、高勝邸に泊まったようです。
休息の一日でしょうか。


 少し先走りますが、なんと芭蕉一行は、ここ黒羽で“13泊”します。この俳句紀行で最長の逗留です。
芭蕉を迎えてくれた鹿子畑兄弟〔兄・高勝(桃雪または秋鴉)、弟・豊明(翠桃)〕のあたたかいもてなしと、この二人を中心とする黒羽での俳句仲間との交流が、あったればこそでしょう。故事来歴ある旧跡が多くあったこと、その割に天候に恵まれなかったことにもよるでしょうが。

 この兄・高勝は、当時弱冠29歳で黒羽藩の城代家老の要職にある人物。弟・豊明も藩政に深く関わっていたようです。この弟の方が、江戸滞在中に芭蕉と知り合い、それが機縁で兄弟が蕉門に加わったようです。

 芭蕉が黒羽を訪れた当時、黒羽藩六代藩主の大関増恒は江戸滞在中、しかも4歳の若殿。一万八千石の小藩といえども高勝、豊明の兄弟は藩政を取り仕切る立場の要人だったわけです。


 黒羽の町は、真中を那珂川(なかがわ)が南流し、左岸(東)に城下町があり兄・城代家老高勝(桃雪)の屋敷はそこに、弟・豊明(翠桃)の屋敷は右岸(西)の余瀬にありました。
芭蕉はおもに桃雪の屋敷に滞在していたようですが、那珂川を渡って何度も行き来したことでしょう。