《おくのほそ道》四月二日〔005〕

《おくのほそ道》

 二十余丁、山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりミれバ、うらみの滝と、申伝え侍る也。


  暫時は滝にこもるや夏の初


 那須の黒ばねと云所に、知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかむとす。遥に一村を見かけて行に、雨降り、日暮るゝ。農夫の家に、一夜をかりて・・・

曾良随行日記》

一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午、鉢石ヲ立、奈須太田原ヘ趣。常ニハ今市へ戻リテ大渡リト云所ヘカヽルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左へノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカヽリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。
〇今市より大渡ヘ弐リ余。
〇大渡より船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。
〇船入より玉入ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。
一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。

昨日(四月一日)正午に日光に着いた芭蕉曾良は、3時頃まで待たされます。それでも東照宮に参詣した感激は大きかったようです。
四月二日は、「裏見の滝」まで足を伸ばします。「身をひそめ入て、滝の裏より」瀑布を見られるらしいのです。
あとは随行日記に見られるように日光北街道の道をとって、今市から玉入(現在の塩谷町(シオヤマチ)玉生)に入りそこで泊まります。

ところで、4四月一日から二日にかけての日光での宿泊は、前日も書いたように日光上鉢石町(カミハツイシマチ)の五左衛門宅です。
(この上鉢石町の観音寺には、五左衛門の家の過去帳もあるとか。)


不思議なのは、普通は利用されない黒羽への日光北街道を教えたのが、あの五左衛門だというのです。

この「仏五左衛門」とは、いったい何者なのでしょうか。
自ら「仏」と名乗ったこの人物、一晩宿を借りただけの人物に、芭蕉は「無智無分別にして正直偏固の者」「気稟の清質」と不思議な評価を与えています。
(そして旅立ちにあたっても、裏道?とも読める道筋を教示してくれたと、曾良までも特記していますが。)
この「仏五左衛門」は、「憚多くて筆をさし置」いた日光の神仏の「化身」として、芭蕉がキャラクターを与えた、言ってみれば、虚構に近い人物なのではと思ったりします。


ところで、芭蕉は日光二荒山について「空海大師開基」と言っていますが、これは、本来の開基と言うべき勝道聖人を空海が『性霊集』で紹介したことによるようです。そして、現在の天台宗の流れは、昨日ふれた慈覚大師(円仁)以来のものです。
私としては、日光三山信仰に熊野の強い影響があるのではと、いつもながらの勝手な「はったり想像」をしています。


さあ、日光をあとに黒羽の芭蕉を追いかけましょう。