元禄二年三月二八日〔1689.05.17/002〕

昨日は、芭蕉曽良を旅立たせるのに精一杯で、三月二十七日の旅程については書けませんでした。

有明の月の残る早朝、深川をたち隅田川を遡行し、日光街道第一の宿駅〔千住〕で陸路につきました。

《おくのほそ道》

耳にふれていまだ目に見ぬ境、若(もし)生て帰らばと、定めなき頼の末をかけて、其日、漸早加と云宿にたどり着にけり。

このように芭蕉は、二十七日の夜は、早加〔草加〕に泊まったように書いています。
が、曽良は「日記」に、カスカベ〔粕壁〕に泊まったと記しています。

芭蕉としては、「漸(ようやく)」と言いながら粕壁まで飛ばしたことを書くのが恥ずかしかったのでしょうか。冗談はともかく、芭蕉は「痩骨」の身の苦しい旅出に、ことばをいくつも重ねています。

いずれにせよ、こうした宿泊地の設定からも、奥の細道の虚構が始まっているようですね。
〔追記:2年前、安易に、「虚構」ということばを使いましたが、この言葉の意味も含め、とりあえず保留をつけておきます。この「奇行」の後半で、この点について、ふれることになると思います。〕

・カスカベ(粕壁/現在の春日部)
http://www5.big.or.jp/~kifa/jp/kasukabe/history-jp.htm

春日部の東陽寺には芭蕉が泊まったという寺伝があると言われています。
http://www.bashouan.com/pePhoto10.htm


二日目の三月二十八日〔G:5月17日〕については、芭蕉は何も語っていませんが、曽良は、随行日記で、次のように記しています。

曾良随行日記》

廿八日 マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅、止。此日、栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。

初宿の春日部で雨をもらった芭蕉一行ですが、その春日部を発った二人は、栗橋関を通り、利根川を船で渡り、間々田に泊まります。今晩は、間々田(第11宿/日本橋から74.4キロ)泊まりです。
今日(2002.5.17)の北陸は、梅雨のような雨の一日でしたが、芭蕉の今日も雨だったようです。

“手形モ断モ不入(いらず)。”からは、「入り鉄砲出女」が厳重に取り締まられた反面、「出男」にはさして支障が無かったよう様子がうかがわれます。
http://www2.justnet.ne.jp/~aokih/sekisyo1.htm

ところで、利根川の渡しは芭蕉には何の感興も湧かせなかったのでしょうか?

なお、芭蕉が、間々田(栃木県小山市)のどこに泊まったのかは不明という。
(間々田は、江戸と日光の中間地点(18里)という石碑があるようです。)