《おくのほそ道》四月三日〔006〕

《おくのほそ道》

那須の黒ばねと云所に、知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかむとす。遥に一村を見かけて行に、雨降り日暮るル。農夫の家に、一夜をかりて、)
明れバ又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬにはあらず。いかゞすべきや。され共此野ハ、東西縦横にわかれて、うゐうゐ敷、旅人の道ふみたがへむ、あやしう侍れバ、この馬のとゞまる所にて、馬を返し給へとかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。ひとりは小娘にて、名をかさねと云。聞なれぬ名の、やさしかりけれバ、


  かさねとは八重撫子の名成べし   曾良


頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。


黒羽の館代、浄坊寺何がしの方に、音信ル。思ひがけぬ、あるじのよろこび、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とふらひ、自の家にも伴ひて・・・

曾良随行日記》

一 同三日 快晴。辰上尅、玉入ヲ立。
 鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。
 沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。
 翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

きのう四月二日は、午前中日光にいる間は快晴でしたが、未の上刻(午後1時半頃)から雷雨となったと曾良さんが書いています。この雨、余ほどのものだったと見えてあまり天候にはふれない芭蕉が「雨降」と記し、曽良は「雷雨甚強」と書き残しています。

きょう四月三日。玉入から黒羽へ向かう道は「快晴」である。
「明れば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。」という《奥の細道的パストラーレ》である。
この田園詩のなかに"かさね"という幼女らが登場し、芭蕉の乗った馬を追いかけるというのどかな構図である。

黒羽で訪ねたのは黒羽大関藩の城代家老・浄法寺図書高勝と、その弟の翠桃(鹿子畑〔カノコハタ〕豊明)であり、この日は翠桃のもとに泊まる。


ところで、ここではじめて"馬"が登場する。深川から千住までは船であったが、ほかの行路はすべて徒歩だったのです。
このレンタカーともいえる馬、「あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ」とあるが、"あたい"とは如何ほどだったのであろうか。そもそも芭蕉一行は、どれほどの路銀をもっていたのだろうか?。
交通手段、宿泊費などなど気になることはかなりある。
(「《奥の細道》の経済学?」、なんかそんなタイトルの本あったような気がしますが・・・。)

ここで登場する馬の習性についても、興味があるのですが、とりあえず;
http://www.asahi-net.or.jp/~BH1H-FJMR/Japanesebreeds.htm

次にリンク引用するのは、偶然見つけた《乗馬をめぐる教育的考察―「時間と空間の共有」を軸として》という峯粼友香理さんの修士論文からの一節です;
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~mine/1-2.htm#_edn8


ところで、日本原産のナデシコは、八重ではないようですが・・・?
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/nadesiko.html