《おくのほそ道》四月十二日 〔015〕

《おくのほそ道》

・・・、日とひ郊外に逍遙して、犬追ものゝ跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。

曾良随行日記》

一 十二日 雨止。図書被見廻、篠原被誘引。


鳥羽法皇の寵愛をうけた妖妃《玉藻の前》は、実は天竺・唐を経て渡来した《金毛九尾の狐》でした。陰陽師・安倍泰親(晴明の何代かの孫)によりこのことが暴かれると、この狐は東国那須野に逃れます。
追討の命が、上総介広常、三浦介義純という二人の弓の名手に下されます。彼らは、犬追物の訓練で騎射の腕をみがき、那須野に潜む狐をようやく見つけると、狐を追いつめます。
狐は蝉に化けて鏡が池の桜の幹に隠れたが、池に映った影が蝉ではなく狐の姿であったため、見破られて殺害されてしまいます。
そこが、「玉藻稲荷神社の狐塚」、その怨霊が飛び去って宿ったのが後日訪れる「殺生石」。


豊明(翠桃)の屋敷に泊まっていた芭蕉らのもとに、兄高勝(桃雪)が訪れ、兄弟の案内で、当時は文字通り篠原然としていた那須が原に一行は出かけたようです。

東国武士と妖艶な九尾の狐のだましあい?。こうした白日夢をここで、芭蕉は見たのでしょうか。

この謡曲殺生石』の故地の探訪が、後日、殺生石にまで足をのばすことにつながったようです。

なお、鳥羽院にとりついた狐の正体を暴いたのは、<安倍泰成>というのがオーソドックスな伝承のようです。<泰親>というのは、異伝のようです。
安倍晴明〔阿部清明〕−吉平−時親−有行−泰長−泰親−泰成−
と安倍家は続いたようで、泰親は五代の、泰成は六代の孫ということになります。


すみません。芭蕉の名文を、曾良の日記に従って、分解し時間順に並べ替えたので、ばらばらにしてなってしまって、お詫びのことばもありません・・・。

いずれ、黒羽の最後の日にでも、実際の行動と細道のテキストを照合させながら、黒羽の項、一挙掲載したいと思います。