《おくのほそ道》元禄二年三月二七日〔1689.05.16/001〕

 今日は、芭蕉が《おくのほそ道》への俳句旅行へ旅立った日でした。


 《おくのほそ道》に、旅立ちの日として記されている「弥生も末の七日」(「元禄二年三月二七日」)は、グレゴリウス暦に直すと1689年5月16日。
平均すると、旧暦(太陰太陽暦)と太陽暦は約1か月(35日ほど)の差があるのですが、この年は1月が2回あったために(一月と閏一月)、現暦と1か月半ほどのずれがあるのです。
 旅立ちは、「春」のイメージがあるのですが、実際は「初夏」だったのですね。
 

 ――ところで、わたし如きが、「おくのほそ道」を論ずるのもどうかと思うのですが、曽良の日記の日付をもとに、《毎日》、芭蕉のいた場所を確認しつつ、ゆっくり「おくのほそ道」を読み直してみようという試み(「おくのほそ道」奇行!)です。
(温暖化?した今日とはいえ、曽良さんの記録をグレゴリウス暦に直して「おくのほそ道」を追いかけることで、おくのほそ道の「季節」を少しでも追体験できるのではないかと思うのです。)

《おくのほそ道》

 弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月ハ有あけにて、ひかりおさまれる物から、富士の峯幽に見えて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

  行春や鳥啼魚の目ハ泪

 是を矢立の初として、行道猶すゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのミゆるまでハと、見送るなるべし。


今年元禄二とせにや。奥羽長途の行脚、たゞかりそめに思ひ立て、呉天に白髪の恨を重ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境、若生て帰らばと、定めなき頼の末をかけて、其日、漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。唯身すがらにと出立侍るを、帋子一衣は夜ルの防ぎ、ゆかた、雨具、墨、筆のたぐひ、あるはさりがたき花むけなどしたるハ、さすがに打捨がたくて、路頭の煩となれるこそ、わりなけれ。

曾良随行日記》

巳三月廿日 同出、深川出船。巳ノ下尅 千住二揚ル
一 廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。

http://hosi.org/cgi-bin/japan/form.cgi?1688
↑に、<元禄2年/3月/27日>を入力・変換してグレゴリウス暦のところを見ると、5月16日ということがわかります。