元禄二年四月一日〔1689.05.19/004〕

《おくのほそ道》

卅日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、我名を、佛五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくハ申侍るまゝ、一夜の草の枕も打とけて休み給へと云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人を、たすけ給ふにやと、あるじのなす事に、心をとゞめてミるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁にちかきたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。


卯月朔日、御山に詣拝ス。往昔、此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光、一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖、穏也。猶憚多くて、筆をさし置ぬ。


  あらたうと青葉若葉の日の光


黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。


  剃捨て黒髪山に衣更   曾良


曾良は、河合氏にして、惣五良と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。此たび、松嶋象潟の眺共にせむ事をよろこび、且ハ羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て、墨染にさまをかへ、惣五を改て宗悟とス。仍て黒髪山の句有。衣更の二字、力有てきこゆ。

曾良随行日記》

一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。
終日曇。午ノ尅、日光ヘ着。雨止。
清水寺ノ書、養源院ヘ届。
大楽院ヘ使僧ヲ被添、折節大楽院客有之。未ノ下尅迄待テ御宮拝見。
終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。

 「おくのほそ道」では、三十日に日光山麓にとまり、四月一日に御山詣拝となっているが、参詣前に日光に一泊したという記載はどうもフィクションらしい。


 そもそも、この年三月は「小の月」で二十九日までであり(三十日はない!)、曾良の日記に見られるように、四月一日に日光に着き、その日のうちに日光参拝を終えているのである。
「室の八島」と「日光」の間の〔三月三十日〕に、「佛五左衛門」というユニークな人物を配して(スケルツォ!)、日光への感興を高めたあと、「卯月朔日」(四月一日)という切りのいい日に、日光参詣を持ってきたかったのかも知れない。

 なお、私自身未だ行ったことのない日光について、芭蕉も“憚多くて筆をさし置ぬ。”と書いているので、多く語るのは差し控えたいと思います。


 興味深いのは、日光東照宮参詣には、許可が必要だったらしいこと。曾良の日記には、「清水寺ノ(許可)書」なるものが出てくる。
この清水寺(セイスイジ)、浅草の寺であり、池波正太郎を読むとき傍らに置いて愛読?している江戸の切絵図には、たしかに記されている。
 気になって確かめてみたら『江戸名所図会』にもしっかりと記載がある。

寺を江北山清水寺と号す。天長年中(1824〜34)慈覚大師(円仁/794〜864)ひとつの勝地を求め、天台法流の一院を建立ありて、みづから一刀三礼にして千手大悲の像を作り、本尊とす。


 慈覚大師(円仁)については、書きたいことがいくつかあるが、またあとで。

 (芭蕉曾良が前日に通ってきた壬生の生まれ!であり、二荒山の中興の人物としても日光にも深く関わっているようである。)


 “仏”五左衛門についても、後日。