《おくのほそ道》五月三日 〔035〕

短夜の空も、やうやう明れバ、又旅立ぬ。猶よるの名残、心すゝまず。馬かりて、桑折の駅に出る。はるかなる行末をかゝへて、かかる病、覚束なしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命也と、気力聊とり直し、道縦横に踏で、伊達の大木戸をこす。

曾良随行日記)

一 三日 雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内。)ヘ二リ。折々小雨降ル。
一 桑折トかいたの間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有(国見峠ト云山有)。コスゴウトかいたトノ間ニ福島領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内。)トノ堺有。左ノ方、石ヲ重テ有。大仏石ト云由。さい川ヨリ十町程前ニ万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコワシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ次信・忠信ガ妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。一二三五。


「心もとなき日かず重るまゝに、白河の関にかゝりて、旅心定りぬ。」と陸奥への道入りを語った芭蕉ですが、ここで仙台伊達領に入るにあたって
「はるかなる行末をかゝへて、かかる病、覚束なしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命也と、気力聊とり直し、道縦横に踏で、伊達の大木戸をこす。」とあらためて自らを鼓舞しています。
(ここの部分のニュアンスをうまく伝えている現代語訳ないかなと、2,3見てみましたが、残念ながらどれも平板な訳でした。)


「伊達の大木戸」は、桑折と貝田の間にある阿津賀志山(厚樫山)の大木戸跡。奥州藤原氏が頼朝の軍を防ぐために気づいた砦という。
そして、貝田と越河(こすごう)との間には、番所があったようです。ここから仙台伊達領!。


質問。曾良随行日記の一番最後の一二三五って何でしょうか?