《おくのほそ道》五月十七日 〔049〕

あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔てゝ、道さだかならざれバ、道しるべの人を頼ミて、越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ、必あやうきめにも、あふべき日なれと、辛きおもひをなして、後について行。あるじの云にたがハず、高山森々として、一鳥声きかず。木の下闇茂りあひて、夜ル行がごとし。雲端に土ふる心地して、篠の中、踏分踏分、水をわたり岩につまづいて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出ズ。彼、案内せし、おのこの云やう、この道、必、不用の事有。つゝがなう送りまいらせて、仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ、胸ととろくのミ也。
尾花沢にて、清風と、云ものを尋ぬ。

曾良随行日記)

○十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森、三リ。市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持せ越也。市野ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花澤ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着、一宿ス。


この「反脇指をよこたえ、樫の杖を携」える“究竟の若者”との山越えの件(くだり)、加藤楸邨の書による碑が山刀伐峠に建ててあるそうです。

そして、今日(7/3)は、加藤楸邨の命日でした(1993年逝去)。