《おくのほそ道》五月二十五 〔057〕

尾花沢にて、清風と、云ものを尋ぬ。
かれハ、富るものなれども、心ざし、いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれバ、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

曾良随行日記)

〇廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入來、連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。


前日の曾良日記のメンバー表に載っていますが「川水(センスイ)」とは、大石田の高桑加助さんのこと。大石田から川水がきたものの「連衆故障有テ俳ナシ」。
この「俳ナシ」、二通りの読み方ができると思います。連日のように行われていた会がこの日に限り無かったのか、待ちに待ったのに「俳ナシ」だったのか・・・。
現に2巻の歌仙が残されているのだから前者なのでしょう。(でもこの歌仙に、曾良がまったくふれてないのはなぜだろう。俳諧書留も黙している。)


ところで、この晩は、「庚申待」。

たしかに一六八九年五月二十五日(G:7/11)は、「庚申」の日。
http://hosi.org/cgi-bin/day.cgi?+1689+7+11

「庚申待ち」;
http://www.town.bisei.okayama.jp/stardb/his/data/his0124.html


なお、「廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。」の「日待」は、「月待」の誤記ないし、誤読かもしれない(岩波、角川とも「日待」だが)。いずれにせよ、二十三夜の「月待」であることに間違いは無いだろう。
(いわゆるサンニャさま。真夜中に23日の下弦の月が出るのを待つ。この日は阿弥陀如来の智恵を表す勢至菩薩の縁日で、智恵の光明は普く一切の衆生を照らし、救済すると信じられ、信仰を集め、とりわけ正、五、九月の二十三夜待は広くおこなわれた。
飯田道夫氏によれば、「日待」は「月待」と同じ行事日,内容であり、日の出を拝するものではなく,月を祀る行事であるという。たしかに日の出を拝む行事であれば、「夜、秋調ヘ被招。」と「ソノ夜清風ニ宿ス。」は一貫しない。わかりづらいかもしれませんが、通説(日待=夜明かしして日の出を拝む行事)に対する批判です。


ところで、「おくのほそ道の<民俗学>」(?)、1か月前に遡りたいと思います。
「廿五日 主物忌、別火。」の件です(白河の関越え直後、須賀川、相楽等躬宅逗留中)。
金森敦子さん(『芭蕉はどんな旅をしたのか』晶文社/2000.10)は、曾良日記のこの「主」は、等躬ではなく芭蕉のことだという。
「若き日の芭蕉が仕えたのが伊賀上野の藤堂良忠・俳号蝉吟で、四月二十五日はその祥月命日に当たっている。芭蕉は別火して蝉丸を悼んだようだ」

う〜ん、と唸ってしまったのだが・・・。
金森説惜しいことに(?)、曾良さん日記中では芭蕉のことを、「翁」と書いており、「主」とは書いてないのである。この日だけ、「主」と書いたとは思えないのである。
ところで、二歳違いのこの主従、「幼弱の頃より藤堂主計良忠蝉吟につかへ、寵愛すこぶる他に異なり」(川口竹人『蕉翁全伝』)というほどの親密な関係だった。
京都の北村季吟について俳諧を学び俳号を蝉吟と号した良忠は、寛文六年(1666)、25歳の若さで亡くなっている。亡くなる前年、蝉吟の主宰で貞徳十三回忌追善百韻が興行され、当時一奉公人に過ぎなかった芭蕉も参加しているほどの破格の扱いであったようだ。


死をも覚悟して旅立ったこの俳諧行脚の旅で、芭蕉が、20数年前に思いを馳せ、俳諧の道に入るきっかけをもつくってくれた主人蝉吟をその祥月命日に偲んだであろうことは、「物忌、別火」が誰の所業であったかの詮索とは別にして、間違いのないことだと思います。