《おくのほそ道》五月二十七日 〔059〕

山形領に、立石寺と云、山寺有。慈覚大師の開基にして、殊、清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに仍て、尾花沢よりとつて返し、其間七里計なり。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂に登ル。岩に巌を重て山とし、松栢年ふり、土石老て、苔なめらかに、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として、こゝろすミ行のミ覚ゆ。


 閑さや岩にしみ入蝉の声

曾良随行日記)

〇廿七日 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡被送ル。尾花沢。二リ、元飯田。一リ、舘岡。一リ、六田。馬次間ニ内藏に逢。二りよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ、山寺。未の下尅ニ着。宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル。是ヨリ山形ヘ三リ。
山形ヘ趣カンシテ止ム。是ヨリ仙台ヘ趣路有。関東道、九十里余。


ところで、曾良に久しぶりに時間感覚がもどってきたようです(笑)。、時刻表記が再開されました。
13日の平泉以来、2週間ぶりです。
辰ノ中尅(午前8時頃)尾花沢を出立して、未の下尅(午後2時半頃)に山寺に着いています。それから山上・山下巡礼でした。


岩にしみ入った声がニイニイゼミだったのか、アブラゼミだったのか、はたまたアブラゼミにこだわった茂吉の次男坊殿がこの件についておもしろいエッセーを残しておられる(「どくとるマンボウ昆虫記」!)ことなどは、ここではふれないことにして嵐山光三郎氏のお話を紹介します。

「しかし、芭蕉は蝉の声のなかに、さらに別の声を聞いていたはずだ。それは芭蕉の主君である藤堂良忠である。良忠は蝉吟と号し、芭蕉とともに貞門俳諧を学び、才をみがいてきた。形のうえでは主従関係でも、血肉をわけた兄弟のように信頼しきった仲であったのに、蝉吟は二十五歳で死んだ。芭蕉が故郷の伊賀上野から江戸へ向かったのは蝉吟が死んだからであった。立石寺の岩の前に立ち、芭蕉は蝉の声の奥に、蝉吟を思い出している。芭蕉の句は、風景描写でありつつも、そこへ時間の影が稲妻のように入りこむ。それは「夏草や・・・・・」の句も同様である。」(『奥の細道温泉紀行』/平凡社コロナ・ブックス/1999.3)

未読ですが赤羽学『発句で読む 芭蕉の生と死』の目次には、「主君蝉吟の死とその余哀/直後の衝哭/一周忌前後の嘆き/忘れようと思う心忘れまいと思う心」の項目が並んでいます。


曾良の「俳諧書留」を紹介するのを忘れていました。

立石の道ニテ
 まゆはきを俤にして紅ノ花   翁

立石寺
 山寺や石にしみつく蝉の声   翁


これ↓が初期形。

 さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ