《おくのほそ道》六月三日 〔065〕

最上川は、みちのくより出て、山形を水上とス。ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の、北を流て、果は、酒田の海に入。左右山おほひ、茂ミの中に、船を下す。是に稲つミたるをや、いな船とハ云ふならし。白糸の瀧は、青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて、舟あやうし。

 さみだれをあつめて早し最上川

六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云もの者を尋て、別当代、會覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情、こまやかに、あるじせらる。

曾良随行日記)

〇三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル(合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。青海チナミ有。)。一リ半古口ヘ舟ツクル。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方二有。平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。
一リ半、雁川、三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院ヘ、大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡。本坊ヘ持参、再帰テ、南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。


この日、最上川〔本合海〜清川〕を船で下り、さらに羽黒山山麓の南谷にいたる。
羽黒山の節の最初に日付を持ってきてはっきりと、川下りと区切りをつけていますが、最上川の川下りと、羽黒山の初日は同じだなんですね〔羽黒山登拝は翌日〕。)


最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり
古今和歌集・東歌)

最上川滝の白糸くる人のこころによらぬはあらじとぞ思ふ
源重之(夫木和歌抄)



かなり前から疑問に思っているのですが、芭蕉曾良が詳細な日記をつけていることを知っていたのでしょうか?。当然、知ってますよね。じゃあ、芭蕉自身、何か記録を残していたのでしょうか。
「細道」を書くために、曾良から日記を「一時拝借」、なんてことあったのでしょうか?


新庄の渋谷甚兵衛(風流)、大石田の高野平右衛門(一栄)の添状が活躍してますね。

図司左吉〔ほそ道〕=近藤左吉〔日記〕=露丸(呂丸)