元禄二年八月二十七日〔1689.10.10〕

大垣の庄に入ば、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外、したしき人々、日夜とふらひて、蘇生のものに、あふがごとく、且、よろこび、且、いたハる。

曾良随行日記)

○廿七日 晴。


芭蕉が訪れた当時の大垣藩は、戸田大垣藩の四代目、戸田氏定の時代(貞享元年1684〜享保八年1725。ちなみに戸田大垣藩の初代は、藩政の模範と称えられる氏鉄。)
もしかしたら忠臣蔵ファンの方ならこの名前、見覚えがおありかもしれない。
江戸城内の刃傷事件後、赤穂の城地明渡しの説得役に浅野安芸守綱長(浅野本家。内匠頭長矩の妻の父の兄の家)とともに任ぜられた大名である。氏定が、内匠頭の母の妹の子つまり従兄弟だったためである。

そして開城諭告使として氏定から赤穂へ派遣されたうちの一人が家老戸田権左衛門。

と、なぜこんなことを延々と書いてきたかというと、大垣で芭蕉をもてなしてくれた家老《戸田如水〔権太夫。氏鉄の孫〕》と、この戸田権左衛門の関係がわからないものかと、調べている最中だからなのです。
こんなこと地元の郷土史家に聞けばすぐわかることなのだろうが、netで調べるには限界がある・・・。
と、こんなところで今日は、失礼です。

http://www.117.ne.jp/~akorosi/gisinews03/news092.htm


ところで、ほそ道紀行の十年後。
もしかして曾良さん、この頃幕府の命を受けて赤穂の動静をさぐっていたかも・・・。ありえないことではない。

そうそう、赤穂浪士と俳句といえば、沾圃の弟子で其角とも交流のあった大高源吾がいますね。

いつも話が飛躍してすみません。