《おくのほそ道》四月廿五日 〔028〕

《おくのほそ道》

すか川の駅に、等窮といふものをたづねて、四五日とゞめらる。

曾良随行日記》

一 廿五日 主物忌、別火。

あるじ等躬が、田植えの「物忌み」に入ったという。“別火”、火=かまど=(食)生活も、別の、おこもり状態である。
正直なところ、驚きである。菅原眞澄ならともかく、芭蕉が縁で、こうした江戸時代の生の習俗に触れようとは思ってもいませんでした。
(〔追記〕2年前の記述では、“主物忌”を、「田植えの物忌み」と断定して進めていますが、現在この断定は、保留します。田植えの「物忌み」は、田植えの前に、しかも早乙女たちによって行われるのが普通だからです。ただし、以下の宮田登氏の記述は、たいせつなものなのでそのまま再録します。)
こうした物忌みの実際について、詳しく述べた民俗学の本が手元にないのが残念です。
「農村」の習俗についてではありませんが、江戸の「都市」の習俗についての宮田登氏の本が書棚にありました(『江戸歳時記』吉川弘文館/S56)。
これがなかなか、興味深い記述が多いのです。
都市を農村との民俗構造の差異から描き出そうとしているからです。

民俗学が用意した日本文化の分析枠組みに、ハレとケの概念がある。衣食住といった基本的な日常生活が、この二つの対立した文化要素から成り立つことを示したものであるが、ここで重要な点は、ハレもケも、水稲栽培を軸とした農業民たちの社会秩序を基礎に設定された概念であるということだった。(略)ハレの生活にあたる年中行事は、稲の播種から収穫にいたるケの中に組み込まれ、一種の秩序あるリズムを形づくっているのだといえる。


この場合考えられるのは、農業生産の構造を維持していくために、ケの活力を増強させるべくハレの機会がもうけられているのであり、ハレとケの交合は、農村における生活文化の体系を安定させる装置として一体化したものだと想定される。ケの強化のためにハレがある。ハレは目的が達成されれば、ただちにケにもどる、すなわちそれがあくまでケの文化を基本として考えられているのである。


こうした視点に立ってみた場合、土の生産から離れた都市生活の日常リズムのあり方が、農村とは別のハレやケを生み出すこととかかわるのではないかと考えられてくる。

ハレとケの論理からすればケの維持と充足をはかる機能が、「休み日」に強く発言されていると理解されよう。
村の休み日は、労働の合間に時折定められており、ハレの日でありかつモノビとされていた。モノビは物忌みをする日という意味であり、カミゴトの日とも称する地域もあった。