《おくのほそ道》四月廿七日 〔030〕
すか川の駅に、等窮といふものをたづねて、四五日とゞめらる。
一 廿七日 曇。三つ物ども。芹沢の滝へ行。
曾良の日記にいう「三つ物ども」が何をさすのかよくわかりませんが、「俳諧書留」には、次のような連句が並んでいます。
旅衣早苗に包食乞ん
いたかの鞁あやめ折すな 翁
夏引の手引の青苧くりかけて 等躬
茨(ふき)やうを又習けりかつみ草 等躬
市の子どもの着たる細布 曽良
日面に笠をならぶる涼して 翁
芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなた、すか川といふ所にとゞまり侍ると聞て申つかはしける。
最初の曾良の句、“旅衣早苗に包(み)食乞ん”は、この連句の前にも
「この日や田植の日也と、めなれぬことぶきなど有て、まうけせられけるに」という詞書つきでメモされています。おそらく、日記に「主ノ田植」と記された廿四日に詠まれたものでしょう。
3つめの連句は、あの黒羽の城代家老(浄法寺図書・桃里)が「猶白河のあなた、すか川といふ所にとゞまり侍ると聞て」芭蕉宛てに送ってきた信書の中の句に、付けた連句です。
「跡見」とは、茶会に参加できなかった客の所望で、前回の茶会をなぞらえてする茶会の意味もあるようです。
浄法寺図書高勝(桃里)。この黒羽の若き城代家老の芭蕉翁への行き届いた心遣いは、なかなかのものです。芭蕉一行の黒羽出立にあたり、馬を用意し高久の名主に添え状を書いただけではありません。二十一日の曾良の日記をよく読むと、梅雨寒にそなえて「小袖・羽織」を芭蕉に貸していたことがわかります。芭蕉は白河の町で、礼状を添えてこれらを左五左衛門という宿に預けています。