追記〔芭蕉の宗匠立机と等躬〕

杉風への手紙に、等躬についての情報も記されています。
「乍憚と申す作者、拙者万句の節、発句など致し候ふ仁にて、伊勢町山口作兵衛方の客にて御坐候ふ。」

“拙者万句”とは、芭蕉が江戸で宗匠として立机した折、その披露におこなわれた万句興行のこと。等躬はそこに発句を寄せたのです。
その折の句が『富士石』(延宝七年〔1679〕)に「桃青万句に」という前書きとともに「三吉野や世上の花を目八分」として載っているようです。
ところで、芭蕉宗匠立机の年がはっきりしていないようです。状況証拠?から延宝五年か六年とされているようですが、等躬の句の季から春であったようです。

手紙から当時、等躬が日本橋伊勢町に住んでいたことがわかるが、芭蕉は(門人卜尺〔小沢太郎兵衛:日本橋本船町〕の世話で)その隣町の日本橋田原町に住んでいた。そんなところから貞門系?の等躬とも親しくする機会があったのだろう。(等躬の方が六歳年長。)
なお芭蕉が手紙を寄せた杉風――芭蕉を経済的にも支えつづけた幕府御用達の魚問屋鯉屋の杉山杉風――も日本橋田原町です。ですから、[伊勢町山口作兵衛]と言えば、“あぁ、あの”とわかるのでしょうね。

・伊勢町も小田原町も現在の日本橋室町。室一仲通商店街に佃煮の鮒佐〔室町1-12-13〕がありその店頭に“発句也松尾桃青宿の春”の句碑があるとか。今度、寄ってみたいと思います。
http://www.iijnet.or.jp/ynp/edo/edo10_04.html