《おくのほそ道》五月二日 〔034〕

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍の里に行。遥山陰の小里に、石半、土に埋てあり。里の童部の来りて、をしへける。むかしは、この山の上に侍しを、往来の人の、麦艸をあらして、この石を試侍るをにくみて、この谷につき落せば、石のおもて、下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。


  早苗とる手もとやむかししのぶ摺


月の輪の渡しを越て、瀬の上と云宿に出ヅ。佐藤庄司が旧跡ハ、ひだりの山際、一里半計に有。飯塚の里、鯖野と聞て、尋たずね行に、丸山と云に、尋あたる。是庄司が旧舘也。麓に、大手の跡など、人のをしゆるにまかせて、泪を落し、又かたハらの古寺に、一家の石碑を残ス。中にも二人の嫁がしるし、先あはれなり。をんなゝれ共かひがひ敷名の世に聞へつるもの哉と、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠くにあらず。寺に入てちやを乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて、什物とす。


  笈も太刀も五月にかざれ帋幟


五月朔日の事にや。


其夜、飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入て、宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。ともし火もなければ、ゐろりの火かげに、寐所をまうけてふす。夜に入て、雷鳴、雨しきりに降て、ふせる上よりもり、蚤蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入計になん。

曾良随行日記)

一 二日 快晴。福島ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラベ村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福島ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ、月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ四、五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。
一 瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、弐本づゝ同ジ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。福島ヨリ弐里。こほりヨリモ弐里。瀬ノウヱヨリ一リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福島ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福島ト出タル由。昼ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿。湯ニ入。


これってなしですよね(笑)。
五月二日(G:6/18)は、ヴォリュームがあり過ぎますね。

話題としては、“しのぶもぢ摺”、“佐藤庄司が旧跡”、“飯塚〔坂〕の湯”。
にわか勉強ではまったく太刀打ちできません。


といいつつも、《しのぶもぢ摺》については、植物の《モジズリ(ネジバナ)》にちなんで、我がnet友の大先輩たちがnet上で、論をたたかわせておられました。3年前のことです。
わたしもそれに少しだけ関わっていまして、今、その跡を訪ねてみました。

やましたこうしんさんのHP《インターネット読書日記》↓のhttp://park17.wakwak.com/%7Elibre/book/index.html
[ほのぼの読書掲示板]の過去ログの[1page]の〔291〕のスレッドです。
http://park17.wakwak.com/%7Elibre/cgi-bin/yybbs/yybbs.cgi


ところで、五月二日の内容のなかで、はじめて“弁慶”“義経”が登場しました。芭蕉のこの陸奥北陸の俳諧旅のお目当ての一つは、「義経」――広くは『平家物語』〜『義経記』の世界――との出逢いだったのだろうと思います。


なお、飯坂温泉(「飯塚」という呼称もあったようで、飯坂をもじった芭蕉の創作地名ではないようです。)の夜は、「おくのほそ道」の「夜(宿)」について語っているなかでも少し悲惨な部分ですが、明日の記述に印象的に逆説(順接?)していきます。