《おくのほそ道》五月八日 〔040〕

彼、画図にまかせて、たどり行ば、おくの細道の山際に、十符の、菅有。今も、年々十符の菅菰を調て、国守に献ズと云り。


  壷碑市川村多賀城ニ有


つぼの石ぶみハ、高サ六尺余。横三尺計歟。苔を穿て、文字幽也。四維国界之数里をしるす。此城、神亀元年、按察使鎮守苻将軍大野朝臣東人之所置也、天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣朝かり、修造而。十二月一日と有。聖武皇帝の御時にあたれり。


むかしより、よみ置る歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩、川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木ハ老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて、うたがひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲ス。行脚の一徳、存命の悦、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。


それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて、末松山と云。松のあひあひ皆墓原にて、はねをかハし、枝をつらぬる、契の末も、終には、かくのごときと、かなしさも増りて、塩がまの浦に入逢のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜かすかに、籬が嶋も程ちかし。あまの小舟こぎつれて、肴わかつこゑごゑに、綱手かなしもとよみけむ、こゝろもしられて、いとゞあハれ也。其夜、目盲法師の琵琶をならして、奥上留りと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子打上て、枕ちかう、かしましけれど、さすがに、辺国の遺風わすれざるものから、殊勝に覚らる。

曾良随行日記)

一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立、十符菅・壺碑ヲ見ル。
未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもハくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竈ノかまを見ル。宿、治兵ヘ、法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。


ここに、この紀行文のタイトルとなった《おくの細道》が登場し、壺の碑、末の松山を経て、塩釜着。

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・「おくのほそ道」
・「つぼの石ぶみ」
・「野田の玉川/沖の石/末の松山」
・「塩がまの浦に入逢のかね」
・「目盲法師の、琵琶をならして、奥上留りと云ものをかたる。」