《おくのほそ道》五月九日 〔041〕

早朝塩竈の明神に詣ヅ。国守再興セられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階、九仞に重り、朝日、あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土のさかひまで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に、古き宝燈有。かねの戸びらのおもてに、文治三年、和泉三郎奇進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そヾろに珎し。渠ハ、勇義忠孝の士也。佳名、今に至りて、したはずと、云事なし。誠、人能道を勤、義を守るべし。名も又是にしたがふと云り。日既、午にちかし。船をかりて、松嶋に渡る。其間二里餘、小じまの礒につく。

抑事ふりにたれど、松嶋ハ、扶桑第一の好風にして、およそ洞庭、西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、淅江の潮をたゝふ。嶋々の数を尽して、欹ものは、天を指、ふすものハ、波に匍匐。あるハ二重にかさなり、三重に畳みて、左リにわかれ、右につらなる。屓ルあり、抱ルあり。児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉、潮風に吹きたはめて、屈曲、おのづから、ためたるがごとし。其気色えう然として、美人の顔を粧ふ。千早振、神の昔大山ずみの、なせるわざにや。造化の天工、いづれの人か、筆をふるひ、詞を尽さむ。
雄嶋が礒は地つヾきて、海に成出たる嶋也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に、世をいとふ人も、稀々見え侍りて、落ぼ、松笠など打煙たる、草の菴、閑に住なし、いかなる人とハしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月、海にうつりて、昼のながめ、又あらたむ。江上に帰りて、宿ヲ求れば、窓を開、二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。


 松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良


予は、口をとぢて、眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松嶋の詩有。原安適、松がうらしまの和哥を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風、濁子、発句あり。


十一日、瑞岩寺に詣。当寺、三十二世の昔、真壁の平四郎、出家して、入唐帰朝の後、開山ス。其後ニ、雲居禅師の徳化によりて、七堂、甍改りて、金壁荘厳、光を輝シ、佛土成就の大伽藍とハなれりける。彼、見佛聖の寺ハ、いづくにやとしたハる。

曾良随行日記)

一 九日 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所ゝ見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被宿岩屈有。無相禅屈ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所ゝヲ見ル(とみ山モ見ユル)。御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社・五太堂ヲ見、慈覚ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云、加衛門状添。


芭蕉の「おくのほそ道」の記述は、塩竈神社→松嶋→瑞岩寺の3部構成で、しかも(十日)、十一日の二日間にまたがった書き方になっていますが、曾良の日記からすると実はすべて五月九日(G:6/25)、一日の出来事のようです。

八日も、九日も仙台で知り合った北野屋嘉右衛門の紹介状で宿をとっています。出発にあたっての草鞋やほしいい、のりに加えてこの紹介状までつけてくれたこの嘉右衛門さん、風雅の人であると同時に<仏の加右衛門?>です。
忘れていました。嘉右衛門さん、案内図も用意してくれたのでした。業界用語?で言う「あご・あし・まくら」付きですね。

また「月」が本文中に登場していますね。もともと「松嶋の月」は、芭蕉の狙い目だったようですが・・・。ねらっていたのは満月?。

「金壁荘厳、光を輝シ、佛土成就の大伽藍」これは、賛辞でしょうか?。日光東照宮の場合と同じように、芭蕉の目にこうした金壁荘厳の大伽藍、どううつっているのでしょうか。
「かの(西行が慕った)見佛聖の寺ハ、いづくにやとしたハる。」この辺りが、芭蕉の本音?。
(遊行柳以来、芭蕉の胸の内には、西行がずっと同行でいるのではないでしょうか。)


松島では芭蕉は句を詠んでいないことになっていますが、次の句が残っています。

島々や千々に砕けて夏の海


そうそう、“松島やああ松島や松島や”の原型?は、

松島やさてまつしまや松島や

という相模は小田原の田原坊というの狂歌師の作とか(仙台藩儒者桜田欽齊の著《松島図誌》文政3(1820))所収)。