《おくのほそ道》五月十日 〔042〕

十二日、平和泉と心ざし、あねはの松、緒どえの橋など聞伝へて、人跡稀に、雉兎、蒭蕘の往かふ道、そこともわかず、終に、道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出ズ。こがね花咲と、よみて奉りたる金花山、海上ニ見渡シ、数百の廻船、入江につどひ、人家、地をあらそひて、竈のけふり立つヾけたり。おもひかけず、かゝる所にも、来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。漸、まどしき小家に一夜を明して、・・・
(明くれば、又しらぬ道まよひ行。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱ハらなど、よそめにみて、はるかなる、堤を行。)

曾良随行日記)

一 十日 快晴。松島立(馬次ニテナシ。間廿丁計)。馬次、高城(キ)村(是ヨリ桃生郡。弐里半)、小野(四里余)、石巻、仙台ヨリ十三里余。小野ト石ノ巻(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不与。刀さしたる道行人、年五十七、八、此躰を憐テ、知人ノ方ヘ一町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町、四兵ヘと尋、宿可借之由云テ去ル。名ヲ問、小野ノ近ク、ねこ村、コンノ源太左衛門殿、如教、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓テ止ム。日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云)・遠島・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。


“今日は石巻ですね。「数百の廻船、入江につどひ、人家、地をあらそひて、竈のけふり立つヾけたり。」というあたり、当時の石巻の賑わいが彷彿しますね。千石船の船乗りの歌に「三十五反の帆を巻き上げて行くよ仙台石巻・・・」
という歌があるほど、石巻は有名な商港だったそうです。吉田松陰の『東北遊日記』によれば、ここから輸出される仙台米は年に七、八十万石とも、三、四十万石ともいわれ、密輸出をふせぐための番所が二十余箇所あって、それでも密輸出が絶えなかったそうです。また、伊達家の方針で藩内は売春禁止だったのですが、石巻だけは諸国の船や人々が集まるため、妓楼があったということです。さぞや活気に満ちた町だったでしょうね。”
〔以上は、2年前net友の美保子さんの書き込んでいただいた部分です〕


《そこともわかず、終に、道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出ズ。》
この部分の虚構性〔道には迷ってないだろうが!〕がよく言われますが、そんなことより、どうしてこのあたりに十一日〔瑞巌寺〕、十二日〔石巻〕と、日付を芭蕉がいれたのか(しかも実際とは違う日付!が〔瑞巌寺は九日、石巻は十日が正解〕・・・)気になりますネ。
〔追記:芭蕉の日付けは、要注意!〕


一方、曾良が珍しく物語っています。
《咽乾き、家毎に湯を乞えども与えられず。刀さしたる道行人、年五十七、八、此の身を憐みて、知人の方へ一町程立ち帰る。同道シテ湯を与うべき由を頼。》
謹厳実直?と言われる曾良も、「刀さしたる道行人」など登場させるところなどよっぽど虚構らしく読めて、なかなかおもしろいですね。


なお、冒頭の「平和泉」、一瞬?!?と思いますが、「平泉」です。曾良本によっていますが、当時こういう表記もあったようです。