《おくのほそ道》五月十一日 〔043〕

明くれば、又しらぬ道まよひ行。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱ハらなど、よそめにみて、はるかなる、堤を行。心ぼそき長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、

曾良随行日記)

一 十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵ヘ、今一人、気仙ヘ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、二リ鹿ノ股(一リ余渡有)、飯野川(三リニ遠し。此間、山ノアイ、長キ沼有)。曇。矢内津(一リ半、此間ニ渡し二ツ有)。戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。検断庄左衛門。


「戸伊摩」は、登米(とよま)。伊達綱村の四男、伊達大蔵村直の領地。


(以下は、net友・美保子さまの書き込み)

歌枕:
袖のわたり
みちのくの袖のわたりのなみだ川心のうちに流れてぞすむ
  相模(新後拾遺集


尾ぶちの牧
みちのくのをぶちの駒も野がふにはあれこそまされなつく物かは
  よみ人しらず(後撰集


まのゝ萱はら
陸奥のまのゝ萱はら遠ければおもかげにしも見ゆといふものを
  笠女郎(万葉集


北上川政宗の壮大な国土経営構想によって、新しい河道がつけられ、この地帯一体が肥沃な田んぼとなったそうです。