元禄二年六月二十七日〔1689.08.12〕

北陸道の雲に望、遥々のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで、百丗里と聞。

曾良随行日記)

〇廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ關被趣。予ハ湯本ヘ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日モ折々小雨ス。及暮、中村ニ宿ス。

3月27日より、ちょうど3か月。
6月27日(G:8/12)、出羽から越後へ入る。

新潟県村上市岩船郡広域圏の[奥 の 細 道 ]というHPの目次から「鼠ケ関」や「中村」などを検索することができます。
http://www6.ocn.ne.jp/~green21/mokiji.htm
「鼠ケ関」
http://www6.ocn.ne.jp/~green21/sanpoku/6nezugaseki.htm
「中村の宿」
http://www6.ocn.ne.jp/~green21/sanpoku/18nakamuranoyado.htm

上のHPでは、芭蕉曾良主従は、一緒に中村に宿をとったように書かれていますが、ほんとはどうなのでしょうか。
「翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ關被趣。予ハ湯本ヘ立寄、見物シテ行。」
芭蕉曾良はこの日、宿も含め別行動をとったのではないでしょうか。これは翌日の日記の「追付」という記載の意味をどう取るかにも関わってきます。
みなさんはどう思われるでしょうか。
体調悪く別行動は今までも何回か記憶にありますが、別行路というのは、旅立ち後89日目にして、初めてではないでしょうか。今後の二人に注目です!。

私は、羽黒山下山の6月10日の「翁ばかり馬にて」の書き込み以来、ひっかかっていますが(笑)、今日も「翁は馬にて直に・・・」です。