元禄二年六月二十八日〔1689.08.13〕

北陸道の雲に望、遥々のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで、百丗里と聞。

曾良随行日記)

〇廿八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲萄(名ニ立程ノ無難所)。甚雨降ル。追付、止。申ノ上刻ニ村上ニ着。宿借テ城中ヘ案内。喜兵・友兵來テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。

北陸路は、芭蕉の記述が少なく(このことの意味、道すがら考えていきたいと思いますが)、タイトルが《そらの細道》になってしまいそうです。

昨日も書きましたが<別行路>をとった芭蕉曾良、どこで落ち合ったのでしょうか。28日の日記中の「追付、止」どう解釈すべきなのでしょうか。


「蒲萄」は、葡萄峠
http://www6.ocn.ne.jp/~green21/asahi/22budoutouge.htm

村上に着いて、突然「城中へ案内」には、めんくらってしまいます。「喜兵・友兵」の名前の並びほほ笑ましいですが・・・。
続きは、明日。



「追付、止」;
これ病院のベンチ(ドライアイでした)で気づきました。曾良の「止」の用例は、すべて雨がやむことなのです。
「及暮、大雨。夜中、不止。」「大雨ス。則刻止、」「夜、甚強雨ス。朝、止」
きょう(6/28)の記述も、「甚雨降ル。追付、止。」で、「追付」は、<追い付く>ではなく<追っ付け>(すぐに)の意と取るほうが自然ですね。私同様、ここを<追い付く>の意味でとっている何人かの研究者の方もおられるようですが、私は、自説完全撤回します(笑)。ただし、別行動の実態は謎のままです。