元禄二年六月二十九日〔1689.08.14〕

北陸道の雲に望、遥々のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで、百丗里と聞。

曾良随行日記)

〇廿九日 天氣吉。昼時、喜兵・友兵來テ(帯刀公ヨリ百疋給)、光榮寺ヘ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。帰、冷麦持賞。未ノ下尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波ヘ行。帰、喜兵御隠居ヨリ被下物、山野等ヨリ之奇物持参。又御隠居ヨリ重之内被下。友右ヨリ瓜、喜兵内ヨリ干菓子等贈。

村松友次『謎の旅人 曽良』に登場してもらうことにします。

“村上での主役は曾良であった。
曾良が(もちろん芭蕉も共に)なぜ村上に行ったかというと、曾良が長島藩に仕官していた頃の主君松平佐渡守康尚(1626〜1696 元禄九)の三男良兼(?〜1687 貞享四)が、この地で二年前(貞享四年七月二十九日)に亡くなった。その墓を拝むためであった。
良兼は、榊原式部大輔家臣・榊原外記直久の養子となりやがて家督を継ぎ延宝初年頃村上藩の首席家老の地位についた。そして三十二、三の若さで亡くなったのである。”


日記文中の「帯刀公」とは、上の引用文の良兼の子で、芭蕉等が村上藩を訪れた時の筆頭家老・榊原帯刀直栄(たてわきなおひさ)のこと。
「一燈公」とは、二年前に亡くなった榊原良兼。ちょうどこの二十九日が、命日だった(偶然?)のである。
一燈公は曽良の主君の子にあたるが、一燈公(良兼)と曽良とは、「1667年から1670年までの間、江戸において出合っていると考えられる。」とのこと。
http://www6.ocn.ne.jp/~green21/murakami/33murakamihansyu.htm


瀬波については;
http://www6.ocn.ne.jp/~green21/murakami/35senamimati.htm

曾良は『おくのほそ道』旅中、港湾はすべて見ている。主なものは、石巻、酒田、瀬波、新潟、出雲崎、柏崎、今町(直江津)、金沢〔金石〕、敦賀等である。
さて、曾良は宿へ帰り着き、旧友やご隠居(良兼未亡人か)よりいただいた御馳走を食べた。”(村松『謎の旅人 曽良』)


百疋は、一両の四分の一.今の二万五千円もしくはそれ以上、という。


冷麦(蕎切、ウドン、ソウメンについで麺類が揃いました)、山野等ヨリ之奇物(!)、重之内(黒羽根4月14日〔6/1〕以来?)、瓜(真桑瓜)、干菓子・・・。

わかったようで、よくわからないのが「干菓子」。
干し芋のようなものかと思っていましたが・・・

<「干菓子」とは煎餅や落雁などの和菓子の事で、「生菓子」は団子、羊羹などの比較的日持ちの短い和菓子の事、そして「半生菓子」はその名の通り前にあげた「干菓子」「生菓子」の中間的存在で最中や州浜などの和菓子の事を指します。>とのこと。