元禄二年七月一日〔1689.08.15〕

北陸道の雲に望、遥々のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで、百丗里と聞。

曾良随行日記)

一 七月朔日 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。喜兵・太左衛門ハ被見立。朝ノ内、泰叟院ヘ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。牛ノ下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙寶寺ヘ同道、帰テつゐ地村、息次市良方ヘ状添遣ス。乙寶寺参詣前大雨ス。則刻止、申ノ上尅、雨降出。及暮、つゐ地村次市良ヘ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。

この年(1689/元禄二年)の六月は29日(←小の月)で終わり、今日から初秋・七月。
朝、泰叟寺に参詣。曽良の長島藩時代の旧友等に見送られて村上、出立。
岩船をとおり、乙村(乙宝寺)→築地〔つゐぢ〕村。

昨日、墓参した光栄寺は、〔榊原家の国付菩提寺〕。この日の泰叟寺(現在の浄念寺)は、〔榊原家の転封後の菩提寺〕と、文庫に注があるが、区別がよくわからない。
榊原氏(←徳川四天王)は、西国の押さえの姫路から後継ぎが三歳だったため村上に転封(1667 寛文七・榊原政倫)、二代でまた姫路に戻っている(1704 宝永元・榊原政邦)。
芭蕉等が訪れた時の藩主は、十五歳の榊原政邦(勝乗)で、江戸在府中であったという。といっても昨日紹介した筆頭家老・榊原帯刀直栄はもっと若かったのではないか。
http://shiro39.hoops.ne.jp/koushinetu/murakamijyou.htm

なお、先に訪れた庄内藩(鶴が岡・酒田)も徳川四天王の酒井氏の領地であった。


乙宝寺(おっぽうじ・きのとでら)は、真言宗智山派の古刹。
http://www.town.nakajo.niigata.jp/spot/spt/spt03.html
http://www.xyj.co.jp/maps/guide/nakajo/opoji/info.htm

この寺に芭蕉の次の句碑があるというが、なぜなのだろう。

うらやましうき世の北の山桜
(元禄七年の作?)


乙宝寺にも同行してくれた乙村〔きのとむら〕の次作とは、誰とどんなつながりがあったのか不明です。が、「甚、持賞」してくれただけでなく、築地〔つゐぢ〕在住の息子・次市良(次市郎)に、すぐ手紙を送り芭蕉らの夜の宿を頼んでおくなど、親切かつ動きがいい。

ところで《持賞ス》。私は読みがわからないまま、ずっと「もてなす」と勝手に、意読?しています。尾花沢での歓待にも、曽良はこのことばで感謝していました。どなたかご存知の方、ご教示ください。

ところで、芭蕉はどうしているのでしょうか(笑)。
いつもは芭蕉のお付きの人として遇されていた曽良が、ここでは道の先を歩いているようですね・・・。