《おくのほそ道》元禄二年八月十七日

露通も、このみなと迄、出むかひて、ミのゝ国へと伴ふ。

曾良随行日記)

○十七日 快晴。

ここから大垣までの記録は「ほそ道」本文にはありません。
等栽といつどこで別れたのか、路通といつ会い、いつ敦賀を立ったのかも不明です。大垣への到着日も不明です。
(路通が、敦賀にやってきたのは彼の意思だったのか。曾良となにか連絡がついていたのか。大垣の人々が出迎えを頼んだのか、等々、疑問が湧いてきます。)

とりあえず芭蕉と路通の大垣までの旅を、追ってみます。

で、芭蕉様には山路を越え、今晩、木之本〔滋賀県伊香郡木之本町〕にお泊りいただこうと思っております。

敦賀から近江への国越えは、塩津街道の新道野峠か、
東側の北国街道の久々坂峠(刀根越え)か?

〔木之本〕
http://www.ne.jp/asahi/yukio/303/kinmt-00.htm


なお現在発行されている「おくのほそ道」の元になっている「素龍(清書)本」(素龍清書→兄・半左衛門→去来→元禄十五年京都井筒屋刊行)が伝わる《西村家》は、敦賀市新道野(しんどうの)にあるのでは?。

※もちろん芭蕉の山越えルートと偶然その近くにある西村家とは、芭蕉当時まったく関係はありません。


なお芭蕉敦賀に出迎えた路通に次の句があるという。

 翁の行脚をこの港まで出でむかひて