《おくのほそ道》五月十三日 〔045〕

平泉に至る。
三代の栄耀、一睡の中にして、大門の跡ハ、一里こなたに有。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ、形を残す。先、高館にのぼれば、北上川、南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。康衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさしかため、夷をふせぐと、見えたり。さても、義臣すぐって、此城に篭り、功名一時の草村となる。国破れて、山河あり、城春にして草青ミたりと、笠打敷て、時のうつるまで、なみだを落し侍りぬ。


夏草や兵共が夢の跡


卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良


兼て、耳驚したる、二堂開帳ス。経堂ハ、三将の像を残し、光堂ハ、三代の棺を納メ、三尊の佛を安置ス。七宝散うせて、玉の扉、風にやぶれ、金の柱、霜雪に朽て、既頽廃空虚の草村となるべきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時、千歳の記念とはなれり。


 五月雨の降のこしてや光堂

曾良随行日記)

一 十三日、天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云トモ弐リニ近シ(伊達八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、旡量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。


芭蕉等が平泉を訪れたちょうど500年前の、その1か月後(文治五年-1189-六月十三日)。藤原泰衡に攻められ自害した義経の首級が、鎌倉の頼朝のもとに届きます。

義経自害(享年31歳)は、閏四月三十日(G:1189/5/30)でした。
義経が亡くなったのも、芭蕉が訪れたのもほぼ同じ時節のことなのです。

あの時と同じ夏草が、という思いが、句には込められているというべきでしょう。
しかもそれは一般に「夏草」のイメージでとらえられる暑夏ではなく、五月雨の降る初夏です。


・・・我々の時代から芭蕉の時代までが、300年。
芭蕉の時代から義経の時代までが、500年・・・。
あらためて考えると、我々と芭蕉との時間的距離の方が、芭蕉義経を想った距離より短いのですね。


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話は変りますが、宮沢賢治は、盛岡中学の生徒の時代(16歳)のときに修学旅行で平泉、塩釜、松島を訪れています〔1912(M45)5/27〜29〕。

そのときの和歌2首


 中尊寺
 青葉に曇る夕暮の
 そらふるはして青き鐘鳴る


 桃青の
 夏草の碑はみな月の
 青き反射のなかにねむりき


また、詩(mental sketch modified)《原体剣舞連》のなかに、曾良の日記に出てくる「タツコク〔達谷〕ガ岩ヤ」が出てきます。


 むかし達谷(たった)の悪路王(あくろわう)
 まつくらくらの二里の洞(ほら)
 わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
 首は刻まれ漬けられ


賢治は〔タッタ〕とわざわざルビを振っていますが、童話《種山ケ原》の中では〔タッコク〕のルビです。
達谷窟に住み坂上田村麻呂に成敗されたエゾの悪路王。この悪路王の子(弟?)、人首丸〔ヒトカベマル〕にまつわる伝説が原体村や種山のある江刺市近辺に多く残っていると言います。


なお、賢治には《中尊寺》という文語詩が2編ありました。


中尊寺〔一〕

 七重の舎利の小塔に    
 蓋なすや緑の燐光     
 大盗は銀のかたびら    
 おろがむとまづ膝だてば  
 赭のまなこたゞつぶらにて  
 もろの肱映えかゞやけり  
 手触れ得ね舎利の宝塔   
 大盗は礼して没(き)ゆる  


中尊寺〔二〕

 白きそらいと近くして   
 みねの方鐘さらに鳴り  
 青葉もて埋もる堂の    
 ひそけくも暮れにまぢかし 
 僧ひとり縁にうちゐて   
 ふくれたるうなじめぐらし 
 義経の彩ある像を      
 ゆびさしてそらごとを云ふ