元禄二年八月二十一日〔1689.10.04〕

露通も、〔このみなと迄、出むかひて、〕ミのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、

曾良随行日記)

○廿一日 同(天気吉)。

「おくのほそ道むすびの地」“美濃大垣”に旅胖を解く。
馬はどこから乗ったものか、春照に泊り、関が原の山越えの路を行くのに利用したのだろう。
「ほそ道紀行」が、(那須で)いよいよ異郷に入り込むときに「情しらぬにはあら(ぬ)」野夫に馬を借り、異郷からの出口で再び馬に「たすけられて」大垣の「庄」に降り立つことは、何か象徴的であるように思われます。


ところで、五年前〔貞享元年(1684)九月末/G:11月初〕「野ざらし紀行」の途上、大垣に谷木因をたずねたのが、初の大垣訪問。
ほそ道紀行の前年〔貞享五年(1688)秋〕、信州更科に名月を見に行く前にも大垣に寄っているという。

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、

  死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮

(のざらし紀行)

「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」は、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と共通するものがありますね。