元禄二年八月二十九日〔1689.10.12〕
大垣の庄に入ば、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外、したしき人々、日夜とふらひて、蘇生のものに、あふがごとく、且、よろこび、且、いたハる。
○廿九日 晴。
芭蕉に宿を提供した如行は近藤如行。大垣藩士(早く致仕して僧となった、とのことですが、芭蕉が訪れた時は、まだ武士だったのでしょう。)。
胡蝶にもならで秋経る菜虫哉 芭蕉
種は淋しき茄子一もと 如行
(「後の旅」より)
「後の旅」は、芭蕉の百か日忌に如行によって編まれたものとのこと。
次のようなものも見つけましたがいつのものか。
霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申し 如行
古人かやうの夜の木枯 芭蕉
なお、今日、12日は、芭蕉忌(時雨忌.桃青忌.翁忌)でした。(上に芭蕉の百か日忌とか書きながら、芭蕉忌のことまったく頭にありませんでした。)
308年前の元禄七年十月十二日〔旧暦〕、芭蕉歿。数え年51歳でした。その時のもようを「花屋日記」によって短編に仕上げた芥川の「枯野抄」があります。
この日は、グレゴリオ暦では、1694年11月28日。
十月半ばのイメージよりずっと寒さのきびしい日だったと思います。
ずっとグレゴリオ暦で芭蕉を追ってきた私としては、この11月28日にもう一度、芭蕉と向き合うことができればといいな、と考えています。
公爵家の娘
2年前の「おくのほそ道奇行」の折に、同行の登貴さまよりいただいた情報。
“藩主の戸田家はたしか明治時代に伯爵になり、その夫人の
肖像が日本画の名作になっていましたね。
いま検索で調べたら、戸田極子さんという名で、、
岩倉具視の娘とか。↓ブラームスとの関係も紹介されています。
http://www.pref.gifu.jp/kouhou-c/manmannaka/vol23/toku_2.htm”
ところで、岩倉具視の曾孫――共産主義に走って自殺したという――岩倉靖子という人物を描いた浅見雅男『公爵家の娘』(中公文庫)を、やはり同行のかねたくさんから、教えていただいていたのにすっかり忘れていました。今も入手できる本なのでしょうか。
元禄二年八月二十七日〔1689.10.10〕
大垣の庄に入ば、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外、したしき人々、日夜とふらひて、蘇生のものに、あふがごとく、且、よろこび、且、いたハる。
○廿七日 晴。
芭蕉が訪れた当時の大垣藩は、戸田大垣藩の四代目、戸田氏定の時代(貞享元年1684〜享保八年1725。ちなみに戸田大垣藩の初代は、藩政の模範と称えられる氏鉄。)
もしかしたら忠臣蔵ファンの方ならこの名前、見覚えがおありかもしれない。
江戸城内の刃傷事件後、赤穂の城地明渡しの説得役に浅野安芸守綱長(浅野本家。内匠頭長矩の妻の父の兄の家)とともに任ぜられた大名である。氏定が、内匠頭の母の妹の子つまり従兄弟だったためである。
そして開城諭告使として氏定から赤穂へ派遣されたうちの一人が家老戸田権左衛門。
と、なぜこんなことを延々と書いてきたかというと、大垣で芭蕉をもてなしてくれた家老《戸田如水〔権太夫。氏鉄の孫〕》と、この戸田権左衛門の関係がわからないものかと、調べている最中だからなのです。
こんなこと地元の郷土史家に聞けばすぐわかることなのだろうが、netで調べるには限界がある・・・。
と、こんなところで今日は、失礼です。
http://www.117.ne.jp/~akorosi/gisinews03/news092.htm
ところで、ほそ道紀行の十年後。
もしかして曾良さん、この頃幕府の命を受けて赤穂の動静をさぐっていたかも・・・。ありえないことではない。
そうそう、赤穂浪士と俳句といえば、沾圃の弟子で其角とも交流のあった大高源吾がいますね。
いつも話が飛躍してすみません。
■奥の細道サミット開催地
第1回 昭和63年 岐阜県大垣市
第2回 平成元年 山形県鶴岡市
第3回 平成2年 岩手県平泉市
第4回 平成3年 栃木県黒羽町
第5回 平成4年 新潟県出雲崎町
第6回 平成5年 埼玉県草加市
第7回 平成6年 三重県上野市
第8回 平成7年 富山県朝日町
第9回 平成8年 山形県山形市
第10回 平成9年 富山県入善町
第11回 平成10年 山形県羽黒町
第12回 平成11年 東京都江東区
第13回 平成12年 岐阜県垂井町
第14回 平成13年 岩手県一関市
第15回 平成14年 石川県山中町
今年〔第17回〕は、三重県上野市で「芭蕉翁生誕360年記念事業」の一環として今月の11〜12日(来週)おこなわれるようです。